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nanaは音楽を変えるのかもしれない

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nanaは変なアプリだ。音楽の世界は広いが、nanaでは他ではお目にかかれない変わった世界が展開されている。そのいくつかについて書いてみたい。

nanaは音楽を変えるのかもしれない。これはバカ正直な実感である。

音楽は時代とともに変わり続ける。その過程で失ってしまったものもある。商業音楽のこの20年の変化、という前提を置けば、ピンとくる人は多いと思う。音楽で商業をすることはそもそも間違っていたのか。音楽は必要なのか。そんな意見すら無視できない。

nanaに展開されている変わった世界は、そんな音楽界に空いたひとつの異次元であるように思っている。nanaは未完成でいびつなアプリだ。そこには、未完成でいびつなユーザーが集まっている。彼らの多くは10代である。


ちなみに商業音楽の現状について知りたい方には柴那典『ヒットの崩壊』をオススメします。音楽へのアンテナに自信がある人にとっては、腕試しになる本です。

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アコースティックアレンジの隆盛

nanaではほとんどの曲がアコースティックギター一本で歌われている。理由はひとつ。当たり前のことなのだが、既存音源を伴奏にカラオケをすることは、著作権法への違反行為だからだ。

なんだそれはつまらないなあ。そう感じる人もいると思う。ただでさえ素人の拙い歌なのに、演奏まで簡素なものになってしまうのかと。もちろん楽器を重ねる多重録音やMIDIでつくった伴奏を投稿することも可能だ。しかし、それは少数派となっている。多くの伴奏はアコギ一本で投稿され、それがボーカリストに好まれて歌われている。

思い思いのアレンジがある。ただコードを追うものもあれば、男性向け、女性向けのキーに変えたり、テンポをグッと落としたJazz調もあれば、リード楽器のパートを上手に組み込んだものもある。

面白いのはここだ。アコースティックギターの伴奏は、ただのカラオケになってしまいがちな素人の歌を聴き応えあるものに化かしている。大げさな話ではなく、私はnanaで曲の新しい魅力に何度も気付かされている。何の気なしに聴く度に。それどころか、このような形で音楽に触れることを私はずっと前から望んでいたような気さえする。それが多くのユーザにとって同じであることは、アコギ伴奏で投稿された楽曲の多さと楽曲への拍手の数が物語っている。アコースティックギターの弾き語りが十代に愛されている。CD音源からかけ離れた素人の編曲を、多くの若者が柔軟に楽しんでいる。他の誰もできなかった。nanaがそれを見出したのだ。

私たちは長く、打ち込みで音楽をつくることは生演奏のレコーディングよりもお手軽であると認識していた。そしてビビットなデジタルミュージックの音と張り詰めた音圧に私たちの耳は慣らされていたはずだった。しかし、nanaのアプリをダウンロードし、アコースティックアレンジされたカバー曲を聴くにつれ、早々と私は認識を改めていった。

 

曲は1分30秒以内に収めなくてはいけない

フルコースで歌わなくても良い。これは投稿への敷居を三分の一に下げる発明だ。Jポップの標準は4分30秒程度だと言われている。ピッチがずれて何度も撮り直すなんてことも、曲が短ければ少なくなる。歌詞も覚えやすい。建前のおかげで、曲の構成も変えてしまえる。

歌が歌いたい。nanaがこれほどまでに賑わっているという事実が、本来なら、公に歌うための心理的、技術的ハードルを乗り越えられずにいたその潜在層を掬い取ったことを証明している。1分30秒というnanaの発明は、Twitterの140文字という発明と同等の、クリエイティブを生むアーキテクチャである。

 

声劇・声面接・ラップバトル

nana独特の生態系として異彩を放っているのが、ユーザ自身のオリジナルコンテンツであることに着目したい。

たとえば、「声劇」。
声劇では、脚本がまず投稿される。脚本は2~3名程度のセリフだけで構成されるオリジナルのフィクションである。脚本家は自ら役者を兼ねる場合がほとんどのようだ。次に、そのホンを気に入ったユーザが、役を選び、ひとりふたりと、筋書きに沿ってテンポ良くセリフを重ねていく。そうして声による劇が完成する。これが意外と聴ける。声優がすっかり市民権を得たことが要因か、演者もリスナーも層が厚く、活気がある。

同じ系統で、「声面接」がある。
声面接は、面接形式で行われる。まず面接官役が素材となる面接を投稿する。面接官はそこでいくつかのセリフやシチュエーションを提示し、面接者はそれをリピートする。腕の見せ所は、面接官のリクエストに対して納得できる表現をしつつ織り交ぜるオリジナルなセリフとニュアンスだ。そのセンスが楽しい。楽しいと言えば、面接の前後には面接の案内や一言コメントが入る。そこでの面接者はあえて声を作っていない。ギャップの魅せ方もひとつの表現になっている。面接官側の素材にあえて被さるようにして掛け合いをつくる人もいる。この辺りはさじ加減で、面白ければなんでも良いといった雰囲気が良い。
濱野智史アーキテクチャの生態系』で、ニコニコ動画が画期的であるのは、擬似的なライブ感を生み出すコメントの仕組みを実現したことにあると指摘されている。別の時間に投稿されたユーザのコメントが、まるでいま一緒に見ているかのように画面には流れるからだ。それが擬似的に一体感を生成する。声面接での掛け合いに私は類似性を感じた。離れた時間を生かしたコンテンツ生成のトリックである。

最も面白いのが「ラップバトル」だと思っている。
二名以上のラッパーがフリースタイルでラップするだけなのだが、なにせ90秒なのでその中でパートを分け合うことになる。最初に投稿する人は、後の人のスペースと、さらにその後自分がアンサーするスペースを残して投稿することになる。即興もなにもあったもんじゃない。完成途中のトラックはタイトルに「途中」とつけられたまま公開される。そして次なるラッパーがファイトを挑んでくるのを待つのだ。コラボ自由のnanaでは、途中のトラックであってもオープンだ。

リリックは面白い。馴れ合いがちなネット上でもしっかりとバトルを繰り広げている。くだらないが飾り気のないものも多く、音楽が持つべきユーモラスな役割を最も担えているジャンルになっている。

先述したが、興味深いのがこれらがオリジナルコンテンツであることだ。いやそれどころか、遊び方の発明に近い。好きな歌を歌うためのプラットフォームで、ユーザはいまの音楽に足りてないものを生み出してる。

 

何もかもが新しい

海の向こうの定額ストリーミングサービスやダウンロード配信の定着は面白いだろうか。音楽を輝かしただろうか。それらを有効に活用した新世代のスターは面白いだろうか。誰かにとっての音楽を変えただろうか。すぐそばの誰かを喜ばす、すぐそばの誰かと楽しむ、誰もそばにいなくたって、ひとりで聴いて良い気になってる。音楽はそんなものだと思う。好きな歌を歌うためのプラットフォームで、ユーザはいまの音楽が失ったものを生み出してる。本物の音楽の手触りを確かめている。なんて新しいことだろう。