この秋起きたことと書かれなかったことについて
公私共に、いや主に公の方がたいへんだった。
公(こう)がたいへんだったせいで、私(し)の方でもなにかといっぱいいっぱいな状況であった。
いっぱいいっぱいであるとき、私は何をしていたか。それを明らかにする。
まずはビールを中心に酒をたくさん飲み、次に本をたくさん読んでいた。
そして熱心に音楽を聴き、ギターを良く弾いた。
以上を踏まえて喫茶店ではコーヒーを飲み、バーやレストランに赴いては、酒を飲んでいた。
そう、要するにいつもと寸分たがわぬ日々を送っていた。
しかしながら、いつもと同じことをしつつもその熱量はいつもより心なしか切迫しており、その対象には強く没入していた。
たとえば、おもむろに手に取ったギターは、アコギではなく、エレキであることが多かったように思う。いうまでもなくGAINのつまみが上振れしていた。
たとえば、未読のものではなく、すでに過去に読んでいた本を何冊か読み返した。それも、本棚の殿堂入りの一角に長いこと鎮座していた、とっておきのやつらだ。
ここまで書いて思うのは、書かれなかったことについてだ。起きたことについて書くとき、そこには必ず書かれなかったことがある。意図的に書かれないこともあるだろう。しかし、私が気にするのは、分量の問題で、あるいは話の流れを自然でわかりやすいものに整えていく上で、必然的に置きざりにされた出来事たちだ。たとえば、私は海外出張に行ったり、その飛行機の中で聴いた桑田佳祐のしゃがれ声に改めてグッと来たりもしたが、それについて上で触れることはなかった。いずれもこの秋の私の公私を書き出す際のトピックとして、けっして役不足ではなかった。
何かが書かれないことで、全体の印象は必ず違うものになる。書き手はすべてを見ている。読み手は書かれたことがすべてであると認識する、まではいかずとも、少なくとも書かれるべきことは書かれているはずだという前提で読む。そこで、書き手と読み手は違うものを見ていることになる。事実のみを連ねているにも関わらず、だ。書き手はそのすれ違いを受け入れられないことが多いように思う。しかし、書かれなかったことが書かれなかったゆえに生じる全体感の変質こそが、ノンフィクションの読み応えを支えるのかもしれない、といま気がついたのだった。だとすれば、書き手はその違いを積極的に選ぶべきなのだ。
書かれたことの外側には、書かれなかったことが散らかっている。
書かれたかった、とうごめいている。
文章を書く上で必要とされる覚悟。そんなものは無限にあるだろうが、そのうちのひとつは、書かれなかったこと、そして本当は書きたかったことから自由でいることなのかもしれない。
『雪の断章』の編曲を少しだけ進めた。
冬はすぐそこだ。