ファジーネーブル

その曖昧さを検索したい

アルバム制作プロジェクト

突然だがアルバムをつくりたいと思う。
理由は簡単だ。
私はプロのミュージシャンではないけれど、プロのミュージシャンみたいにアルバムをつくりたくなった。パッケージとして残るものを。

作品が後世に残るものかどうかは後世が決める。作品でお金をとるかどうかはリスナーが決める。作品を流通させるかどうかは誰かが決める。作品を残すことは自分が決める。

アルバムはある種の自伝である。自分の聴いてきた音楽や、過去の記憶が刻まれた自分らしいものをつくりたい。一方で欲もある。良い音楽だと思われたいし、すごいと思われたい。自分らしいものが自ずとインパクトに繋がれば良いけれど、そうなるかは完成してみたところでわからない。

 


このドキュメンタリーをはじめるまえに、少しだけ、土台となる状況を振り返っておく。

 

まず第一に、ちょっとしたギターリフや、コード、メロディ、歌詞の組み合わせはすでにたくさんのストックがある。その一部はフルコーラスの弾き語りで歌える。

第二に、DAWはLogicProXを使用する。しかし経験は浅い。打ち込み、ギター録音、ボーカル録音、ミックスまでやりきった曲は3曲、初音ミクを含めれば9曲である。

課題はDTMに多い。
Logicを使いこなせていない。オーディオインターフェースコンデンサーマイクは持っているがMIDIキーボードは持っていない。ループ音源とエフェクトを持て余し、イコライジングでドツボにはまる。

録音は特に苦手かもしれない。
練習が不十分なのに、RECボタンを押せば奇跡の名演ができると思っている。リテイクを繰り返す。そしてディレクションが出来ない。すごく良い気もするし、すごくだめな気もする。一晩寝てもわからない。モニタリングやクリックとの付き合い方も毎回手探り。マイキング、ノイズ対策、入力レベルでは決め手に欠ける調整を繰り返し、よくわからないままベストを尽くしたことにする。

そもそも、一時はDTMに積極的にトライしていたが、次第に奥が深すぎるこの世界に慄き、弾き語りをレコーダーに吹き込むだけの日々に帰ってきてしまった。

 


このブログに、アルバムをつくる過程を書いてみたい。デモトラックから思考の整理まで、勉強したことから実践したことまで載せてみたい。これまでの私は、スタート地点からの足跡を見失うことで、スタート地点で抱いたモチベーションまで見失ってしまうことが多かった。ブログを足跡にして丁寧に進めよう。音楽が完成する前から、足跡それ自体をコンテンツにできるのもブログの良さである。

さて、このプロジェクトは一番はじめにお楽しみが待っている。それはバンド名を決めることだ。

2010年、8ヶ月の夢とゲンロン0

「先輩。4月からエロゲの先生がくるらしいっすよ」
「エ、エロゲの先生?」
東浩紀っていうんですけど。エロゲに詳しいオタクらしいっす」
それってただのエロゲに詳しいオタクじゃないのか。

2010年3月。学部の後輩があることを教えてくれた。
それは4月から私たちの学部に新しい教授が赴任するという情報だった。
教授の人事なんてよくあることだった。
しかし私たちの関心を惹きつけたのは、その教授がエロゲに詳しいオタクであるということだった。

2010年4月、学部の四年生になった私は就職活動をしていなかった。
昔から音楽と小説が好きで、例によって大学生になってからはアニメを見て、ニコニコ動画を見て、初音ミクを聴いた。エロの有無を問わず、サウンドノベルに夢中になった。

私の大学入学は2007年春。ニコニコ動画の誕生は2006年末。細田守の『時をかける少女』は2006年。アニメの『涼宮ハルヒの憂鬱』と『ひぐらしのなく頃に』が2006年。新海誠の『秒速5センチメートル』は2007年。アニメの『CLANNAD』は2007年。初音ミクは2007年。そういう時代だった。

後輩のアドバイスに従って、私はエロゲの先生の授業を履修した。授業は『WEB文化論』と言った。学部で一番の大教室だった。教室に入って来た東浩紀を初めてみたときのことは鮮明に覚えている。

最初、その男はTA(ティーチングアシスタント)に見えた。やけに若く、もっさりしており、垢抜けてない。冴えない大学院生だなと思った。太っているところも、いかにも冴えない大学院生であり、歩き方もオタクみたいだった。そのとき私は大切なことを忘れていた。私は「エロゲに詳しいオタク」の授業を受けようとしていたのだ。

広すぎる教壇に立ったTAは高い声で自己紹介をはじめた。TAなのに自己紹介するのか。このTAは東浩紀の専属の弟子なのかもしれない。

彼が東浩紀自身であることに自己紹介の途中で気がついてから、私がどのようにして東浩紀にはまったのかは不思議なことに覚えていない。

5月、私はTwitterをはじめた。『クォンタム・ファミリーズ』は三島由紀夫賞を受賞し、受賞後の授業では東浩紀を拍手で迎えた。7月、発売したばかりのiPhone4を買った。WebブラウザをGoogleChromeに変え、ライフハッカーやギズモードを読んでブックマークを効率的に同期したり、iPhoneでブログを書いたりした。6月頃、高田馬場に住む宇野常寛をWEB文化論のゲスト講師として東浩紀は迎えた。ある学生のカンニングが、Twitter経由で東浩紀本人にバレた。ニコ生のアーカイブを見て、突発的なUstreamを見た。『ised 情報社会の倫理と設計』の発売記念イベントが大学で行われた。津田大介の金髪を見た。すべてのキッカケは東浩紀だった。夏にはほとんどの著作を読んでいた。私は相変わらず就職活動をしていなかった。一方で『コンテクチュアズ友の会』が発足し、東浩紀に軍資金がリアルタイムで集まっていく様を私はTwitterで見ていた。ネットでのPR活動だけで。

東浩紀とは体験である。当時、同じ体験をした人がたくさんいたと思う。
結果的に当時の私が必要としていた人生への打開策を東浩紀はもたらさなかった。それは当然だ。私は東浩紀に打開策を求めていたけど、彼はもっと素晴らしいものをくれた。それはありふれた体験だ。だけど、ある時代にある年齢でしか出会うことのできない体験だ。

秋、私は相変わらず就職活動をしていなかった。東浩紀以外の書籍も熱心に読んでいた。進学するつもりは全くなく、実家の世話になるつもりもなかった。Twitterは板についてきた。依然おもしろい時期だった。尖閣諸島問題が起きた。12月に発売される『思想地図β vol.1』に向け、界隈の盛り上がりはピークに達していた。それはシーンというやつだった。この頃FaceBookに登録したが、いまもそれは使っていない。

12月、私は卒論を仕上げて『侵略!イカ娘』のエンディングテーマと『思想地図β vol.1(ショッピング/パターン)』を買った。12月23日、青山ブックセンター本店で行われた象徴的なイベント「2010年代の言論空間 思想地図β創刊記念with早稲田文学×PLANETS」に出向いた。壇上のスターたちにサインや握手を求める学生や、卒論を渡す学生がいた。彼らは東浩紀に認知された。私はただその場にいた。面識はなかったが彼らは大学の同級生だった。私の就職は決まっていなかった。それなのに2010年は、なんて素晴らしいのだろうと思った。


2011年4月。結果として私は就職した。リーマンショックの影響が最も出た年であり、就職率は谷底だった。3月には忘れもしない大震災があった。『魔法少女まどか☆マギカ』が放映されていたがピンときていなかった。


この記事は2010年について語っている。2011年は重要な年だが、2010年は大切な年だ。2011年を起点にTwitter東浩紀も私も変わった。一般発売された『ゲンロン0』を読んだ。最高傑作だった。2010年4月から12月23日まで私が見続けた8ヶ月の夢は、2011年になって弾けたはずなのに、『ゲンロン0』で生きている。私は、私の人生を打開しない東浩紀を、これからも必要とする。

 

ゲンロン0 観光客の哲学
ゲンロン0 観光客の哲学
posted with amazlet at 17.04.15
東 浩紀
株式会社ゲンロン (2017-04-08)
売り上げランキング: 61

ロックスターと時の隔たり

上京して約10年経っているようだ。
途方もない時間だ。

高校卒業間際の10年前の私にとって、10年という時間はほとんど永遠と変わらないものだったように思える。多くのことが変わったのだろうが、感覚的にはなにも変わっていない気がしている。

これはとても恐ろしいことだ。

多くの大人たちが、気持ちは若い頃のままだと言うのを聞いてきた。
そんなのは無理がある、潔く現実を受け入れろと思ってきた。

しかし十年経って思うに、私たちは客観的な数値で社会における相対的な位置を目視し続けない限り、時の隔たりを感じることができない生き物なのかもしれない。

だから若者には、時に年長者がとても滑稽に映る。


問題は、その隔たりの不可視性を、そういうものと捉えるべきか、是正していくべきかという点だ。


大人は、時の隔たりを、意識して生きるべきなのだろうか。

 


社会生活を営む限りにおいて、年齢によってマナー違反や無知への許容ラインは異なる。若いから許されることがある以上、若くないことを認識しておく必要はあるのかもしれない。許容ラインの絶え間ない変化が、成長へのモチベーションとして機能している例も多いだろう。

しかし、逆に言えば、そこを担保できるのなら、私たちは時の隔たりにとらわれる必要はないのかもしれない。つまり、少なくとも体感的な若さそれ自体が、滑稽であることなど全くないということだ。

 

f:id:bluemonday-inc01:20170319142634j:plain

 

今日、チャック・ベリーが亡くなった。
ロックスターが寿命を迎える時代が、いよいよきている。

ローリング・ストーンズポール・マッカートニーボブ・ディラン
若くして死なず、老人になったロックスターたちは、おそらく半世紀前に地球上で誰一人として想像できなかったレベルで若く在り続け、ロックし続けている。ロックミュージックが誕生する以前の人類社会に、このような前例は存在したのだろうか。

彼らは、時の隔たりという尺度で、生き方の是正を行ってこなかった生き証人たちだ。
それが滑稽なものなどではなく、むしろ人類史のエアポケットに落ち、忘れ去られていた輝かしい本質であることを、ロックンロールは偉大なスターたちを通して再証明してきたのかもしれない。

 

ちなみにそのエアポケットの前で立ち止まって覗き込んだ最初の人物は、Chuck Berryという名の大男だと聞いたことがある。

スターバックスを誤解したなら If you misunderstood Starbucks

スターバックスは都会のオアシスだと思う。海外旅行にいけば尚更だ。

 現地に行って、グローバルフードを食べるのはなるべく避けているけど、スターバックスにだけはいくことにしている。落ち着くし、WiFiもあって、英語が通じる。価格帯にブレがないからスタバを基準に相場をはかれるのはちょっとしたテクニックだ。そしてどこの国でも必ず、その国に根ざしたカジュアルで温かい接客がある。

 


スターバックスでは必ずドリップコーヒーを頼む。

 夏はアイスコーヒー。肌寒くなる季節からはホットコーヒー。日本なら108円でワンモアコーヒーをオーダーできる。ドリップコーヒーはどこの国にもある。スタンドに並ばずその場で手渡してくれる。そして最も安い。スタバはドリップコーヒーが一番美味しいと思う。フラペチーノでもラテでもなく、スタバの無印のコーヒーこそが、私にコーヒーを飲む敬虔な歓びを与えてくれる。

 


スタバは高いという人がいる。

 私に言わせれば、彼らはそもそもコーヒーに価値を見出していない人か、スタバに来たからにはと言ってフラペチーノかキャラメルマキアートを頼まなければならないという強迫観念に駆られている人のどちらかだ。お気の毒に。ドリップコーヒーにおいて、確かにドトールよりもマックよりも高いが、その分味は確かであり、またルノアールより安い。コーヒーを愛し、喫茶店に休日の遊びを見出し、あるいは喫茶店に平日の癒やしを求めることのできる人間なら、フラペチーノを仮想的にする前に、腰を折ってプライスカードを見なければならない。

f:id:bluemonday-inc01:20170220225653j:plain

 


スタバのコーヒーは美味しくないという人がいる。

 セブンイレブンのコーヒーと大差ないと。私は問いたい。あなたはスターバックスの店舗が提案する空間とスターバックスに馴染めてしまう人々を苦手とするだけではないのかと。決してコーヒーの味なんてあなたは分からないのではないのかと。馴染めない気持ちはわかる。鼻につく気持ちもわかる。セブンイレブンのコーヒーで満足しているのもわかる。でも、スターバックスのコーヒーの味をあなたが知らないで言っているのなら、まずはテイクアウトしてほしい。そしてその足でドトールに入り、MacBookを広げている大学生ではなく、レッツノートを広げている営業マンの隣で、十分にリラックスしてほしい。自分の居場所に帰ってきたと思えたら、そこで本当のスターバックスを味わってみよう。

 


彼らとスタバの間にある距離を広げているのは彼らの自意識だけだ。

 そして、私たちとスタバの距離を近づけているのは、私たちの自意識ではない。真に居心地の良く、好める味でなければ、それこそ自意識に投資するには、いちコーヒーショップを愛好するコストは高すぎるものだ。家で飲むコーヒーも美味しい。街の小さな喫茶店での飲むコーヒーは至上のときだ。ただ私は毎週末、大好きなスターバックスに通うだけだ。

千夏のうた - ボーカロイドを投稿しました

初音ミクオリジナル曲をYoutubeに投稿した。

曲名は『千夏のうた』。
きたがわ翔の同名の漫画から拝借している。

昔から夏が好きで、夏のお話ならなんでも好きだった。
夏への扉、STAND BY ME、サマー/タイム/トラベラー耳をすませばひぐらしのなく頃に時をかける少女クロスゲーム...。


きたがわ翔の『千夏のうた』もそんな夏好きが高じて手に取り、ひたすらじりじりとした夏の熱気に心地よさを感じながら読んだ気がする。もう何年も前なので筋書きは覚えていない。

夏のお話も好きだが、夏の曲も好きだった。
少年時代、真夏の果実、青春、夏を抱きしめて青い車、SUNSHINE ON SUMMER TIME、サマーブリーズにのって、summer...。

この地味な曲をつくったのは二年前くらい。ボカロのユーザ層を意識してハチャメチャな曲を無理してつくった反動でできた気がする。

聴いて欲しいところは、フリー素材から頑張って探した波の音のサンプリング。イントロとアウトロにちっちゃなボリュームで入っている。
あとは、過剰にロングトーンなメロディ。早送りみたいに歌う曲に時間をかけたので、意識してロングトーンで組み立てたかった。

 

聴きどころがサンプリング音源ってのも変な話ね。

 

 

P.S.
そういえば十文字青カクヨムで『ANGEL+DIVE』を再開したという噂が耳に入った。彼の作品はいくつか読んだが、『ANGEL+DIVE』が一番好きだった。刊行がストップしたと知ったときは出版社の見る目の無さを嘆いた。『千夏のうた』も決して人気作品ではない。しかし、もしかすると今の時代なら、『ANGEL+DIVE』のような渋い復活劇を願って、こうやって文章にすることも、徒労では終わらないのかもしれない。

 

ビールは聡明だ。そして美しい。

上品で歴史がある。文化が香る。エキゾチック。渋くて知的。
美術でも建築でもコーヒーでもジャズでもない。ビールの話だ。

 

ビールが好き。
三度の飯より、夕飯前のビールが好き。一日に一度のビールが好き。

いわゆるクラフトビールが好き。

ビールは喉越しで飲むという人がいるけれど、そんな飲み方はしない。
味わってじっくり飲む。メインディッシュ。

クラフトビールは、並のお酒よりも、コーヒーよりも、繊細で味わい深い飲み物だ。
上品で歴史がある。文化が香る。エキゾチック。渋くて知的。これはビールの話なんだ。

 

スタウト、ポーターは黒くて美しい。
ローストという言葉は彼らのためにある。
黒ビールは思索の時間と共にある。それは宇宙のエクスタシーに等しい。
スリランカのライオンスタウトがここしばらくお気に入り。

 

ペールエールやIPAは金色で美しい。濁っているのもカッコいい。
饒舌で良い気になってる友達だ。
すべては自由であることを、いつもその身振りで、彼らは教えてくれる。
よなよなエールはいつもそばにいてくれる。ビアバーに行けばまず一番人気のペールエールで勝負をかける。

 

ホワイトエールやヴァイツェンは繊細で美しい。
フルーティーで飲みやすいのは、偽りの姿だ。
彼らは最も繊細な泡をつくる。注いだ後はじっくり泡の動きを見る必要がある。
ベストタイミングは一瞬だ。日々の鍛錬とその日の余裕。
飲み手が試されるとき、ビールはいつだって私たちを待っている。

 

ラガーやピルスナーは堂々とした鋼の肉体が美しい。
彼らの力強いリズムが、ビートの世界に誘い込む。
彼らとセッションするとき、私は万全のコンディションで臨める夜を選ぶ。
ニューヨークで飲んだブルックリンラガーは最高だった。
いつかチェコピルスナーウルケルを飲んでみたい。

 

ビールは聡明だ。そして美しい。文学のように。音楽のように。
私はまだ何も分かっていない。
だから毎晩彼らに語りかける。この世界の真実に触れるために。

f:id:bluemonday-inc01:20170103140452j:plain

nanaは音楽を変えるのかもしれない

nanaは変なアプリだ。音楽の世界は広いが、nanaでは他ではお目にかかれない変わった世界が展開されている。そのいくつかについて書いてみたい。

nanaは音楽を変えるのかもしれない。これはバカ正直な実感である。

音楽は時代とともに変わり続ける。その過程で失ってしまったものもある。商業音楽のこの20年の変化、という前提を置けば、ピンとくる人は多いと思う。音楽で商業をすることはそもそも間違っていたのか。音楽は必要なのか。そんな意見すら無視できない。

nanaに展開されている変わった世界は、そんな音楽界に空いたひとつの異次元であるように思っている。nanaは未完成でいびつなアプリだ。そこには、未完成でいびつなユーザーが集まっている。彼らの多くは10代である。


ちなみに商業音楽の現状について知りたい方には柴那典『ヒットの崩壊』をオススメします。音楽へのアンテナに自信がある人にとっては、腕試しになる本です。

ヒットの崩壊 (講談社現代新書)
柴 那典
講談社
売り上げランキング: 18,508

 

f:id:bluemonday-inc01:20161229170242p:plain

 

アコースティックアレンジの隆盛

nanaではほとんどの曲がアコースティックギター一本で歌われている。理由はひとつ。当たり前のことなのだが、既存音源を伴奏にカラオケをすることは、著作権法への違反行為だからだ。

なんだそれはつまらないなあ。そう感じる人もいると思う。ただでさえ素人の拙い歌なのに、演奏まで簡素なものになってしまうのかと。もちろん楽器を重ねる多重録音やMIDIでつくった伴奏を投稿することも可能だ。しかし、それは少数派となっている。多くの伴奏はアコギ一本で投稿され、それがボーカリストに好まれて歌われている。

思い思いのアレンジがある。ただコードを追うものもあれば、男性向け、女性向けのキーに変えたり、テンポをグッと落としたJazz調もあれば、リード楽器のパートを上手に組み込んだものもある。

面白いのはここだ。アコースティックギターの伴奏は、ただのカラオケになってしまいがちな素人の歌を聴き応えあるものに化かしている。大げさな話ではなく、私はnanaで曲の新しい魅力に何度も気付かされている。何の気なしに聴く度に。それどころか、このような形で音楽に触れることを私はずっと前から望んでいたような気さえする。それが多くのユーザにとって同じであることは、アコギ伴奏で投稿された楽曲の多さと楽曲への拍手の数が物語っている。アコースティックギターの弾き語りが十代に愛されている。CD音源からかけ離れた素人の編曲を、多くの若者が柔軟に楽しんでいる。他の誰もできなかった。nanaがそれを見出したのだ。

私たちは長く、打ち込みで音楽をつくることは生演奏のレコーディングよりもお手軽であると認識していた。そしてビビットなデジタルミュージックの音と張り詰めた音圧に私たちの耳は慣らされていたはずだった。しかし、nanaのアプリをダウンロードし、アコースティックアレンジされたカバー曲を聴くにつれ、早々と私は認識を改めていった。

 

曲は1分30秒以内に収めなくてはいけない

フルコースで歌わなくても良い。これは投稿への敷居を三分の一に下げる発明だ。Jポップの標準は4分30秒程度だと言われている。ピッチがずれて何度も撮り直すなんてことも、曲が短ければ少なくなる。歌詞も覚えやすい。建前のおかげで、曲の構成も変えてしまえる。

歌が歌いたい。nanaがこれほどまでに賑わっているという事実が、本来なら、公に歌うための心理的、技術的ハードルを乗り越えられずにいたその潜在層を掬い取ったことを証明している。1分30秒というnanaの発明は、Twitterの140文字という発明と同等の、クリエイティブを生むアーキテクチャである。

 

声劇・声面接・ラップバトル

nana独特の生態系として異彩を放っているのが、ユーザ自身のオリジナルコンテンツであることに着目したい。

たとえば、「声劇」。
声劇では、脚本がまず投稿される。脚本は2~3名程度のセリフだけで構成されるオリジナルのフィクションである。脚本家は自ら役者を兼ねる場合がほとんどのようだ。次に、そのホンを気に入ったユーザが、役を選び、ひとりふたりと、筋書きに沿ってテンポ良くセリフを重ねていく。そうして声による劇が完成する。これが意外と聴ける。声優がすっかり市民権を得たことが要因か、演者もリスナーも層が厚く、活気がある。

同じ系統で、「声面接」がある。
声面接は、面接形式で行われる。まず面接官役が素材となる面接を投稿する。面接官はそこでいくつかのセリフやシチュエーションを提示し、面接者はそれをリピートする。腕の見せ所は、面接官のリクエストに対して納得できる表現をしつつ織り交ぜるオリジナルなセリフとニュアンスだ。そのセンスが楽しい。楽しいと言えば、面接の前後には面接の案内や一言コメントが入る。そこでの面接者はあえて声を作っていない。ギャップの魅せ方もひとつの表現になっている。面接官側の素材にあえて被さるようにして掛け合いをつくる人もいる。この辺りはさじ加減で、面白ければなんでも良いといった雰囲気が良い。
濱野智史アーキテクチャの生態系』で、ニコニコ動画が画期的であるのは、擬似的なライブ感を生み出すコメントの仕組みを実現したことにあると指摘されている。別の時間に投稿されたユーザのコメントが、まるでいま一緒に見ているかのように画面には流れるからだ。それが擬似的に一体感を生成する。声面接での掛け合いに私は類似性を感じた。離れた時間を生かしたコンテンツ生成のトリックである。

最も面白いのが「ラップバトル」だと思っている。
二名以上のラッパーがフリースタイルでラップするだけなのだが、なにせ90秒なのでその中でパートを分け合うことになる。最初に投稿する人は、後の人のスペースと、さらにその後自分がアンサーするスペースを残して投稿することになる。即興もなにもあったもんじゃない。完成途中のトラックはタイトルに「途中」とつけられたまま公開される。そして次なるラッパーがファイトを挑んでくるのを待つのだ。コラボ自由のnanaでは、途中のトラックであってもオープンだ。

リリックは面白い。馴れ合いがちなネット上でもしっかりとバトルを繰り広げている。くだらないが飾り気のないものも多く、音楽が持つべきユーモラスな役割を最も担えているジャンルになっている。

先述したが、興味深いのがこれらがオリジナルコンテンツであることだ。いやそれどころか、遊び方の発明に近い。好きな歌を歌うためのプラットフォームで、ユーザはいまの音楽に足りてないものを生み出してる。

 

何もかもが新しい

海の向こうの定額ストリーミングサービスやダウンロード配信の定着は面白いだろうか。音楽を輝かしただろうか。それらを有効に活用した新世代のスターは面白いだろうか。誰かにとっての音楽を変えただろうか。すぐそばの誰かを喜ばす、すぐそばの誰かと楽しむ、誰もそばにいなくたって、ひとりで聴いて良い気になってる。音楽はそんなものだと思う。好きな歌を歌うためのプラットフォームで、ユーザはいまの音楽が失ったものを生み出してる。本物の音楽の手触りを確かめている。なんて新しいことだろう。