ビールは聡明だ。そして美しい。
上品で歴史がある。文化が香る。エキゾチック。渋くて知的。
美術でも建築でもコーヒーでもジャズでもない。ビールの話だ。
ビールが好き。
三度の飯より、夕飯前のビールが好き。一日に一度のビールが好き。
いわゆるクラフトビールが好き。
ビールは喉越しで飲むという人がいるけれど、そんな飲み方はしない。
味わってじっくり飲む。メインディッシュ。
クラフトビールは、並のお酒よりも、コーヒーよりも、繊細で味わい深い飲み物だ。
上品で歴史がある。文化が香る。エキゾチック。渋くて知的。これはビールの話なんだ。
スタウト、ポーターは黒くて美しい。
ローストという言葉は彼らのためにある。
黒ビールは思索の時間と共にある。それは宇宙のエクスタシーに等しい。
スリランカのライオンスタウトがここしばらくお気に入り。
ペールエールやIPAは金色で美しい。濁っているのもカッコいい。
饒舌で良い気になってる友達だ。
すべては自由であることを、いつもその身振りで、彼らは教えてくれる。
よなよなエールはいつもそばにいてくれる。ビアバーに行けばまず一番人気のペールエールで勝負をかける。
ホワイトエールやヴァイツェンは繊細で美しい。
フルーティーで飲みやすいのは、偽りの姿だ。
彼らは最も繊細な泡をつくる。注いだ後はじっくり泡の動きを見る必要がある。
ベストタイミングは一瞬だ。日々の鍛錬とその日の余裕。
飲み手が試されるとき、ビールはいつだって私たちを待っている。
ラガーやピルスナーは堂々とした鋼の肉体が美しい。
彼らの力強いリズムが、ビートの世界に誘い込む。
彼らとセッションするとき、私は万全のコンディションで臨める夜を選ぶ。
ニューヨークで飲んだブルックリンラガーは最高だった。
いつかチェコでピルスナーウルケルを飲んでみたい。
ビールは聡明だ。そして美しい。文学のように。音楽のように。
私はまだ何も分かっていない。
だから毎晩彼らに語りかける。この世界の真実に触れるために。
nanaは音楽を変えるのかもしれない
nanaは変なアプリだ。音楽の世界は広いが、nanaでは他ではお目にかかれない変わった世界が展開されている。そのいくつかについて書いてみたい。
nanaは音楽を変えるのかもしれない。これはバカ正直な実感である。
音楽は時代とともに変わり続ける。その過程で失ってしまったものもある。商業音楽のこの20年の変化、という前提を置けば、ピンとくる人は多いと思う。音楽で商業をすることはそもそも間違っていたのか。音楽は必要なのか。そんな意見すら無視できない。
nanaに展開されている変わった世界は、そんな音楽界に空いたひとつの異次元であるように思っている。nanaは未完成でいびつなアプリだ。そこには、未完成でいびつなユーザーが集まっている。彼らの多くは10代である。
ちなみに商業音楽の現状について知りたい方には柴那典『ヒットの崩壊』をオススメします。音楽へのアンテナに自信がある人にとっては、腕試しになる本です。
アコースティックアレンジの隆盛
nanaではほとんどの曲がアコースティックギター一本で歌われている。理由はひとつ。当たり前のことなのだが、既存音源を伴奏にカラオケをすることは、著作権法への違反行為だからだ。
なんだそれはつまらないなあ。そう感じる人もいると思う。ただでさえ素人の拙い歌なのに、演奏まで簡素なものになってしまうのかと。もちろん楽器を重ねる多重録音やMIDIでつくった伴奏を投稿することも可能だ。しかし、それは少数派となっている。多くの伴奏はアコギ一本で投稿され、それがボーカリストに好まれて歌われている。
思い思いのアレンジがある。ただコードを追うものもあれば、男性向け、女性向けのキーに変えたり、テンポをグッと落としたJazz調もあれば、リード楽器のパートを上手に組み込んだものもある。
面白いのはここだ。アコースティックギターの伴奏は、ただのカラオケになってしまいがちな素人の歌を聴き応えあるものに化かしている。大げさな話ではなく、私はnanaで曲の新しい魅力に何度も気付かされている。何の気なしに聴く度に。それどころか、このような形で音楽に触れることを私はずっと前から望んでいたような気さえする。それが多くのユーザにとって同じであることは、アコギ伴奏で投稿された楽曲の多さと楽曲への拍手の数が物語っている。アコースティックギターの弾き語りが十代に愛されている。CD音源からかけ離れた素人の編曲を、多くの若者が柔軟に楽しんでいる。他の誰もできなかった。nanaがそれを見出したのだ。
私たちは長く、打ち込みで音楽をつくることは生演奏のレコーディングよりもお手軽であると認識していた。そしてビビットなデジタルミュージックの音と張り詰めた音圧に私たちの耳は慣らされていたはずだった。しかし、nanaのアプリをダウンロードし、アコースティックアレンジされたカバー曲を聴くにつれ、早々と私は認識を改めていった。
曲は1分30秒以内に収めなくてはいけない
フルコースで歌わなくても良い。これは投稿への敷居を三分の一に下げる発明だ。Jポップの標準は4分30秒程度だと言われている。ピッチがずれて何度も撮り直すなんてことも、曲が短ければ少なくなる。歌詞も覚えやすい。建前のおかげで、曲の構成も変えてしまえる。
歌が歌いたい。nanaがこれほどまでに賑わっているという事実が、本来なら、公に歌うための心理的、技術的ハードルを乗り越えられずにいたその潜在層を掬い取ったことを証明している。1分30秒というnanaの発明は、Twitterの140文字という発明と同等の、クリエイティブを生むアーキテクチャである。
声劇・声面接・ラップバトル
nana独特の生態系として異彩を放っているのが、ユーザ自身のオリジナルコンテンツであることに着目したい。
たとえば、「声劇」。
声劇では、脚本がまず投稿される。脚本は2~3名程度のセリフだけで構成されるオリジナルのフィクションである。脚本家は自ら役者を兼ねる場合がほとんどのようだ。次に、そのホンを気に入ったユーザが、役を選び、ひとりふたりと、筋書きに沿ってテンポ良くセリフを重ねていく。そうして声による劇が完成する。これが意外と聴ける。声優がすっかり市民権を得たことが要因か、演者もリスナーも層が厚く、活気がある。
同じ系統で、「声面接」がある。
声面接は、面接形式で行われる。まず面接官役が素材となる面接を投稿する。面接官はそこでいくつかのセリフやシチュエーションを提示し、面接者はそれをリピートする。腕の見せ所は、面接官のリクエストに対して納得できる表現をしつつ織り交ぜるオリジナルなセリフとニュアンスだ。そのセンスが楽しい。楽しいと言えば、面接の前後には面接の案内や一言コメントが入る。そこでの面接者はあえて声を作っていない。ギャップの魅せ方もひとつの表現になっている。面接官側の素材にあえて被さるようにして掛け合いをつくる人もいる。この辺りはさじ加減で、面白ければなんでも良いといった雰囲気が良い。
濱野智史『アーキテクチャの生態系』で、ニコニコ動画が画期的であるのは、擬似的なライブ感を生み出すコメントの仕組みを実現したことにあると指摘されている。別の時間に投稿されたユーザのコメントが、まるでいま一緒に見ているかのように画面には流れるからだ。それが擬似的に一体感を生成する。声面接での掛け合いに私は類似性を感じた。離れた時間を生かしたコンテンツ生成のトリックである。
最も面白いのが「ラップバトル」だと思っている。
二名以上のラッパーがフリースタイルでラップするだけなのだが、なにせ90秒なのでその中でパートを分け合うことになる。最初に投稿する人は、後の人のスペースと、さらにその後自分がアンサーするスペースを残して投稿することになる。即興もなにもあったもんじゃない。完成途中のトラックはタイトルに「途中」とつけられたまま公開される。そして次なるラッパーがファイトを挑んでくるのを待つのだ。コラボ自由のnanaでは、途中のトラックであってもオープンだ。
リリックは面白い。馴れ合いがちなネット上でもしっかりとバトルを繰り広げている。くだらないが飾り気のないものも多く、音楽が持つべきユーモラスな役割を最も担えているジャンルになっている。
先述したが、興味深いのがこれらがオリジナルコンテンツであることだ。いやそれどころか、遊び方の発明に近い。好きな歌を歌うためのプラットフォームで、ユーザはいまの音楽に足りてないものを生み出してる。
何もかもが新しい
海の向こうの定額ストリーミングサービスやダウンロード配信の定着は面白いだろうか。音楽を輝かしただろうか。それらを有効に活用した新世代のスターは面白いだろうか。誰かにとっての音楽を変えただろうか。すぐそばの誰かを喜ばす、すぐそばの誰かと楽しむ、誰もそばにいなくたって、ひとりで聴いて良い気になってる。音楽はそんなものだと思う。好きな歌を歌うためのプラットフォームで、ユーザはいまの音楽が失ったものを生み出してる。本物の音楽の手触りを確かめている。なんて新しいことだろう。
地元の友達・探す物語・君の名は
地元の友達と連絡をとると、同級生の多くが子どもをつくっていて驚く。
結婚したらしいよ。
子どもができたらしいよ。
と耳にする機会はあるけど、
子ども連れて何処何処のホームセンターにいるのを見かけたよ。
と言われると、急にその事実が身に迫って感じられる。
机を並べた彼らの人生は、結局どうなったのだろうか。
子どもができる前に、自分の人生を生きることは出来たのだろうか。
人生は、自由と責任だ。
人生は概ね、学生時代を終えてからはじまる。
だから、私はいつも彼らの人生が気になる。
自由と責任を手にしてから、同級生たちはどこへ向かうのか。何を選ぶのか。
どのように変わるのか。なにを失い、なにを手にするのか。
子どもの面倒を見るということは、子どもの人生を一緒に生きるということだ。
つまり、人生が二つになる。自分の人生と子どもの人生。
二つの人生を並走させるために、私たちはバランスをとる必要がある。
人生が満ち足りた。と思っている人は少ないと思う。
足りないもののために、私は、子どもができる前の自分の人生、というやつを意識する。
『君の名は。』で、瀧と三葉は別の人生を生きる。
私が好きなのは、二人が入れ替わりお互いの人生を生きた経験が、無かったことにもならなければ、有ったことにもならない、という曖昧な結末だ。
自分はいつかどこかで、何かとても大切で、素敵なことに巡り合っていたかもしれない。
入れ替わることで実現した二つ目の人生は、ノスタルジーという形で処理される。
つまり自分自身の人生に回収されるのだ。
子どもの人生を、私たちは回収することはできない。回収してはいけない。
だから難しい。子どもと生きるということは。
『君の名は。』のキャッチコピーは「まだ会ったことのない君を、探している」だ。
二人はずっとお互いを探している。会うまえも、会ったあとも、すべてが終わり大人になってからも。
そういう意味で、『君の名は。』は探す物語だと言える。
人生が満ち足りた。と思っている人は少ないと思う。
足りないもののために、私たちも探す物語を生きている。
子どもを連れて、ホームセンターにいたあの人は、いまでも探す物語を生きているのだろうか。
決して無かったことにはならない子どもの人生とパラレルなまま、自分の人生はどう在るのだろうか。
糸守の救済というハッピーエンドで二人が結ばれなかったことは象徴的だ。
瀧と三葉は別の人生を生きる。
『君の名は。』は恋物語ではない。
固有の人生の固有性をこそ浮き彫りにする、探す物語だ。
醒めないスピッツ、めざめるスピッツ
空も飛べるはず と 醒めない
『空も飛べるはず』の仮タイトルが『めざめ』であったことは有名な話です。
一方で、スピッツの最新アルバムのタイトルが『醒めない』であることは記憶に新しいでしょう。そこには、めざめることと、醒めないこと、という二つの相反するキーワードが存在します。
それは草野マサムネの手癖だった
まずと前提にしたいのは、めざめることも醒めないことも、スピッツ楽曲では既視感のあるモチーフであることです。
めざめるスピッツ
"切り札にしてた見えすいた嘘は 満月の夜にやぶいた
はかなく揺れる 髪のにおいで 深い眠りから覚めて(『空も飛べるはず』)"
"泥まみれの 汗まみれの 短いスカートが
未開の地平まで僕を戻す(『ラズベリー』)"
"月の光 差し込む部屋
きのうまでの砂漠の一人遊び
胸に咲いた黄色い花(『胸に咲いた黄色い花』)"
"雪溶けの上で
黄色い鈴の音が
密やかに響く(『ただ春を待つ』)"
"黄色い金魚のままでいられたけど
恋するついでに人になった(『コメット』)"
醒めないスピッツ
"夢から醒めない翼(『遙か』)"
"君のアパートは今はもうない
だけど僕は夢から覚めちゃいない(『アパート』)"
"僕らが隣り合うこの世界は今も
けむたくて中には入れない(『タンポポ』)"
"まだまだ醒めない アタマん中で ロック大陸の物語が(『醒めない』)"
バンドのオリジナリティに意識的だった若き草野マサムネは、スターリンやZELDAのシュールであったり耽美であったりする世界観を吸収し、バンドブームの渦中で効果的な差別化を成功させました。
その風景のベースとして草野マサムネが選んだのが、肉体性から離れ、より抽象的に分解された「性」でした。清らかなイノセンスを忍ばせたまま「性」にアプローチするとき、丁度よい距離感に「(性の)めざめ」と「(夢から)醒めない」というヴェールがあったのだと私は思います。
アルバムを長く聴いてる方ならお分かりの通り、上に挙げた曲は、それでもわかりやすい方です。ここに挙がっていないものでも、多くの曲で、思春期に片足立ち突っ込んだ頃のあの感じや、夢の中にいるようなはっきりしない心地よさ、あるいはあらゆることに夢想的だったあの頃の感じが鼻先を掠めます。
一見、別のテーマを扱っているように見える曲でも、通奏低音のように、この手の世界観がスピッツの歌詞には流れるように、もはやなっています。
今でこそテーマとしての性に意識的だったり、リリカルな文学性を売りにするバンドのフロントマンは多いです。しかし、スピッツにとって「(性の)めざめ」と「(夢から)醒めない」は染み付いてしまったバリバリの手癖なのです。
グリーン
意味上は対立する二つの手癖を愛玩してきた草野マサムネの作家性を掘り下げると、その射程はスピッツの外に広がっていきます。
最新アルバム『醒めない』から歌詞を引用しましょう。
"コピペで作られた 流行りの愛の歌
お約束の上でだけ 楽しめる遊戯
唾吐いて みんなが大好きなもの 好きになれなかった
可哀想かい?”(『グリーン』)
珍しく直接的で、批評的です。
批評の的だけでなく、青臭い自分自身も振り返るあたりに、今のスピッツのオトナモードが現れています。
愛の歌をコピペでつくる奴。お約束の音楽で楽しむ人々。槍玉はこの二つです。一部過去形の表現が出てきていますが、それらを好きになれないのは80年代のスピッツだけでなく、今のスピッツも同じでしょう。
フェスとロックとお約束
批評の矛先を具体化してみましょう。
仮に私であれば、昨今のフェスブームと、そこに向かって考えなしに邁進するバンドや観客であると捉えたいです。
スポーツとロックの相性は意外と悪く、その理由は、ルールの死守がテーゼであるスポーツとルールからの逸脱がテーゼであるロック、というシンプルな差異に象徴的です。スポーティーと形容されるいまのフェス文化が、「ルール = お約束、の上で楽しめる遊戯」として大衆化している、という批判は、ある程度は周知の文脈であると思います。コピペのような歌詞、コピペのようなサウンド、コピペだからこそ複数バンドを跨いでも一体感を持って盛り上がれる観客たち。拳を突き上げ輪になって、大声で歌って汗をかいて、魔法のような一体感を得られるその瞬間。いじわるに言えば、音楽が共感を呼ぶのではなく、共感に音楽が奉仕しているようなその瞬間。
ロックバンドの批判精神には、自分たちは違うよ、という主張が含まれています。「お約束」の上か外側か、という分水嶺に、天邪鬼で孤独なロッカー、草野マサムネは意識的です。キャリアを積んだ今あえて"ロック大陸(『醒めない』)"と歌い自分たちのアイデンティティを継続更新するそのスタンスをヒントにして、この分水嶺を次のように言い換えることから話は進みます。「お約束」の上で楽しむことは非ロックであり、その外部に身を置く自分たちこそがロックである、と。
ロックじゃないかロックであるか
グリーンからこぼれ落ちたこの問いを私は、『醒めない』というアルバムに垣間見えた「めざめ」に対する意識と位置づけたいです。なぜか。ロックに目覚めることは、お約束からの逸脱を意味するからです。
愚かな人たちよ目を覚ませ。スピッツは控えめに、そう言っています。
カオス体験
社会学者の宮台真司が映画批評で常用するフレームワークに、「カオス体験」というものがあります。以下にとても簡単に解釈します。
多くの映画は通過儀礼を描くと言えます。通過儀礼は日常の中にやってきて、人を精神的カオスの中に巻き込みます。その渦中は言語化できるものではありません。カオスを乗り越えることで、これまで見えていた世界がまったく別の世界に見えるような体験をします。それが登場人物の成長であり、物語のカタルシスになります。(カオス体験要約)
これは現実でも起こりえることであり、音楽や映画、文学などに極端に感動しこれまでの自分ではいられなくなるほど気持ちを揺さぶられる状態はカオス体験であると言えます。ロックの洗礼、というやつです。
めざめとカオス体験
さて、ここに至り、何かに目覚めることはカオス体験であると解釈できます。
ロックミュージックを聴き新たな世界が開けると同時に、ロックが混沌をもたらす存在であると知ること。それはカオス体験の一部始終そのものというわけです。
ロックとの出会いはカオス体験なのだから、ロックバンドが「お約束」の上で楽しむなど言語道断。「お約束」の上にいるということはロックに目覚めていない、と言い切れてしまうのではないか。問いに戻れば、スピッツの控えめな問題提起は非常に本質的なものだったことがわかります。
混沌を排する「ルール = お約束」は、ロックの一番大事な部分、ロックへの目覚めを置いてけぼりにした。「お約束」の上にいるバンドたち、それはロックちゃうんじゃないの。どうなのよ、というわけです。
スピッツはいかに
スピッツの話で終わりたいと思います。
『醒めない』での取材で、草野マサムネは、決して悪い意味ではないがいまのロックは変わってきているという主旨のことを話していました。
反骨心は消え、もっとお行儀の良いものになっていると。演奏も上手い、と。スピッツはおじさんだから古いロックの概念に拘ってしまう、そして置いて行かれる自分たちをアリだと思う開き直りが本作の勢いになっていると、と。
そこで「お約束」は、少しだけ肯定されています。スピッツは柔軟です。スピッツは決してシーンに不満を持つことはありません。事実、夏のスピッツはフェスシーンに真っ向から乗っかる形でそれを全力で楽しんでいます。でも不安はあったのではないか、違和感はあったのではないか、と考えてみたいです。いや、考えるべきです。スピッツのやってきたこととその作品に理解があるのならば。
『グリーン』で表出した草野マサムネの疑問には、不安に陥ったときに、媚びるわけでも、閉じこもるわけでもなく、シーンの相対性の中でバランスしてしまうスピッツの緊張感が現れています。
"ロック大陸の夢から醒めない”(『醒めない』)という自己認識の背後には、一方で覚醒を呼びかける、また、そのことで自らの不安を昇華させていく、というマインドセットが並走していたのです。
もちろん草野マサムネの不安は杞憂でした。『醒めない』で、私は目の醒めるような体験をし、「お約束」の外に連れ出されたからです。それは多くの人にとって同じはずです。スピッツこそが紛れもなくロックであり、その性(さが)は決して古びようのないロックの本質と結合しているのです。