地元の友達・探す物語・君の名は
地元の友達と連絡をとると、同級生の多くが子どもをつくっていて驚く。
結婚したらしいよ。
子どもができたらしいよ。
と耳にする機会はあるけど、
子ども連れて何処何処のホームセンターにいるのを見かけたよ。
と言われると、急にその事実が身に迫って感じられる。
机を並べた彼らの人生は、結局どうなったのだろうか。
子どもができる前に、自分の人生を生きることは出来たのだろうか。
人生は、自由と責任だ。
人生は概ね、学生時代を終えてからはじまる。
だから、私はいつも彼らの人生が気になる。
自由と責任を手にしてから、同級生たちはどこへ向かうのか。何を選ぶのか。
どのように変わるのか。なにを失い、なにを手にするのか。
子どもの面倒を見るということは、子どもの人生を一緒に生きるということだ。
つまり、人生が二つになる。自分の人生と子どもの人生。
二つの人生を並走させるために、私たちはバランスをとる必要がある。
人生が満ち足りた。と思っている人は少ないと思う。
足りないもののために、私は、子どもができる前の自分の人生、というやつを意識する。
『君の名は。』で、瀧と三葉は別の人生を生きる。
私が好きなのは、二人が入れ替わりお互いの人生を生きた経験が、無かったことにもならなければ、有ったことにもならない、という曖昧な結末だ。
自分はいつかどこかで、何かとても大切で、素敵なことに巡り合っていたかもしれない。
入れ替わることで実現した二つ目の人生は、ノスタルジーという形で処理される。
つまり自分自身の人生に回収されるのだ。
子どもの人生を、私たちは回収することはできない。回収してはいけない。
だから難しい。子どもと生きるということは。
『君の名は。』のキャッチコピーは「まだ会ったことのない君を、探している」だ。
二人はずっとお互いを探している。会うまえも、会ったあとも、すべてが終わり大人になってからも。
そういう意味で、『君の名は。』は探す物語だと言える。
人生が満ち足りた。と思っている人は少ないと思う。
足りないもののために、私たちも探す物語を生きている。
子どもを連れて、ホームセンターにいたあの人は、いまでも探す物語を生きているのだろうか。
決して無かったことにはならない子どもの人生とパラレルなまま、自分の人生はどう在るのだろうか。
糸守の救済というハッピーエンドで二人が結ばれなかったことは象徴的だ。
瀧と三葉は別の人生を生きる。
『君の名は。』は恋物語ではない。
固有の人生の固有性をこそ浮き彫りにする、探す物語だ。
醒めないスピッツ、めざめるスピッツ
空も飛べるはず と 醒めない
『空も飛べるはず』の仮タイトルが『めざめ』であったことは有名な話です。
一方で、スピッツの最新アルバムのタイトルが『醒めない』であることは記憶に新しいでしょう。そこには、めざめることと、醒めないこと、という二つの相反するキーワードが存在します。
それは草野マサムネの手癖だった
まずと前提にしたいのは、めざめることも醒めないことも、スピッツ楽曲では既視感のあるモチーフであることです。
めざめるスピッツ
"切り札にしてた見えすいた嘘は 満月の夜にやぶいた
はかなく揺れる 髪のにおいで 深い眠りから覚めて(『空も飛べるはず』)"
"泥まみれの 汗まみれの 短いスカートが
未開の地平まで僕を戻す(『ラズベリー』)"
"月の光 差し込む部屋
きのうまでの砂漠の一人遊び
胸に咲いた黄色い花(『胸に咲いた黄色い花』)"
"雪溶けの上で
黄色い鈴の音が
密やかに響く(『ただ春を待つ』)"
"黄色い金魚のままでいられたけど
恋するついでに人になった(『コメット』)"
醒めないスピッツ
"夢から醒めない翼(『遙か』)"
"君のアパートは今はもうない
だけど僕は夢から覚めちゃいない(『アパート』)"
"僕らが隣り合うこの世界は今も
けむたくて中には入れない(『タンポポ』)"
"まだまだ醒めない アタマん中で ロック大陸の物語が(『醒めない』)"
バンドのオリジナリティに意識的だった若き草野マサムネは、スターリンやZELDAのシュールであったり耽美であったりする世界観を吸収し、バンドブームの渦中で効果的な差別化を成功させました。
その風景のベースとして草野マサムネが選んだのが、肉体性から離れ、より抽象的に分解された「性」でした。清らかなイノセンスを忍ばせたまま「性」にアプローチするとき、丁度よい距離感に「(性の)めざめ」と「(夢から)醒めない」というヴェールがあったのだと私は思います。
アルバムを長く聴いてる方ならお分かりの通り、上に挙げた曲は、それでもわかりやすい方です。ここに挙がっていないものでも、多くの曲で、思春期に片足立ち突っ込んだ頃のあの感じや、夢の中にいるようなはっきりしない心地よさ、あるいはあらゆることに夢想的だったあの頃の感じが鼻先を掠めます。
一見、別のテーマを扱っているように見える曲でも、通奏低音のように、この手の世界観がスピッツの歌詞には流れるように、もはやなっています。
今でこそテーマとしての性に意識的だったり、リリカルな文学性を売りにするバンドのフロントマンは多いです。しかし、スピッツにとって「(性の)めざめ」と「(夢から)醒めない」は染み付いてしまったバリバリの手癖なのです。
グリーン
意味上は対立する二つの手癖を愛玩してきた草野マサムネの作家性を掘り下げると、その射程はスピッツの外に広がっていきます。
最新アルバム『醒めない』から歌詞を引用しましょう。
"コピペで作られた 流行りの愛の歌
お約束の上でだけ 楽しめる遊戯
唾吐いて みんなが大好きなもの 好きになれなかった
可哀想かい?”(『グリーン』)
珍しく直接的で、批評的です。
批評の的だけでなく、青臭い自分自身も振り返るあたりに、今のスピッツのオトナモードが現れています。
愛の歌をコピペでつくる奴。お約束の音楽で楽しむ人々。槍玉はこの二つです。一部過去形の表現が出てきていますが、それらを好きになれないのは80年代のスピッツだけでなく、今のスピッツも同じでしょう。
フェスとロックとお約束
批評の矛先を具体化してみましょう。
仮に私であれば、昨今のフェスブームと、そこに向かって考えなしに邁進するバンドや観客であると捉えたいです。
スポーツとロックの相性は意外と悪く、その理由は、ルールの死守がテーゼであるスポーツとルールからの逸脱がテーゼであるロック、というシンプルな差異に象徴的です。スポーティーと形容されるいまのフェス文化が、「ルール = お約束、の上で楽しめる遊戯」として大衆化している、という批判は、ある程度は周知の文脈であると思います。コピペのような歌詞、コピペのようなサウンド、コピペだからこそ複数バンドを跨いでも一体感を持って盛り上がれる観客たち。拳を突き上げ輪になって、大声で歌って汗をかいて、魔法のような一体感を得られるその瞬間。いじわるに言えば、音楽が共感を呼ぶのではなく、共感に音楽が奉仕しているようなその瞬間。
ロックバンドの批判精神には、自分たちは違うよ、という主張が含まれています。「お約束」の上か外側か、という分水嶺に、天邪鬼で孤独なロッカー、草野マサムネは意識的です。キャリアを積んだ今あえて"ロック大陸(『醒めない』)"と歌い自分たちのアイデンティティを継続更新するそのスタンスをヒントにして、この分水嶺を次のように言い換えることから話は進みます。「お約束」の上で楽しむことは非ロックであり、その外部に身を置く自分たちこそがロックである、と。
ロックじゃないかロックであるか
グリーンからこぼれ落ちたこの問いを私は、『醒めない』というアルバムに垣間見えた「めざめ」に対する意識と位置づけたいです。なぜか。ロックに目覚めることは、お約束からの逸脱を意味するからです。
愚かな人たちよ目を覚ませ。スピッツは控えめに、そう言っています。
カオス体験
社会学者の宮台真司が映画批評で常用するフレームワークに、「カオス体験」というものがあります。以下にとても簡単に解釈します。
多くの映画は通過儀礼を描くと言えます。通過儀礼は日常の中にやってきて、人を精神的カオスの中に巻き込みます。その渦中は言語化できるものではありません。カオスを乗り越えることで、これまで見えていた世界がまったく別の世界に見えるような体験をします。それが登場人物の成長であり、物語のカタルシスになります。(カオス体験要約)
これは現実でも起こりえることであり、音楽や映画、文学などに極端に感動しこれまでの自分ではいられなくなるほど気持ちを揺さぶられる状態はカオス体験であると言えます。ロックの洗礼、というやつです。
めざめとカオス体験
さて、ここに至り、何かに目覚めることはカオス体験であると解釈できます。
ロックミュージックを聴き新たな世界が開けると同時に、ロックが混沌をもたらす存在であると知ること。それはカオス体験の一部始終そのものというわけです。
ロックとの出会いはカオス体験なのだから、ロックバンドが「お約束」の上で楽しむなど言語道断。「お約束」の上にいるということはロックに目覚めていない、と言い切れてしまうのではないか。問いに戻れば、スピッツの控えめな問題提起は非常に本質的なものだったことがわかります。
混沌を排する「ルール = お約束」は、ロックの一番大事な部分、ロックへの目覚めを置いてけぼりにした。「お約束」の上にいるバンドたち、それはロックちゃうんじゃないの。どうなのよ、というわけです。
スピッツはいかに
スピッツの話で終わりたいと思います。
『醒めない』での取材で、草野マサムネは、決して悪い意味ではないがいまのロックは変わってきているという主旨のことを話していました。
反骨心は消え、もっとお行儀の良いものになっていると。演奏も上手い、と。スピッツはおじさんだから古いロックの概念に拘ってしまう、そして置いて行かれる自分たちをアリだと思う開き直りが本作の勢いになっていると、と。
そこで「お約束」は、少しだけ肯定されています。スピッツは柔軟です。スピッツは決してシーンに不満を持つことはありません。事実、夏のスピッツはフェスシーンに真っ向から乗っかる形でそれを全力で楽しんでいます。でも不安はあったのではないか、違和感はあったのではないか、と考えてみたいです。いや、考えるべきです。スピッツのやってきたこととその作品に理解があるのならば。
『グリーン』で表出した草野マサムネの疑問には、不安に陥ったときに、媚びるわけでも、閉じこもるわけでもなく、シーンの相対性の中でバランスしてしまうスピッツの緊張感が現れています。
"ロック大陸の夢から醒めない”(『醒めない』)という自己認識の背後には、一方で覚醒を呼びかける、また、そのことで自らの不安を昇華させていく、というマインドセットが並走していたのです。
もちろん草野マサムネの不安は杞憂でした。『醒めない』で、私は目の醒めるような体験をし、「お約束」の外に連れ出されたからです。それは多くの人にとって同じはずです。スピッツこそが紛れもなくロックであり、その性(さが)は決して古びようのないロックの本質と結合しているのです。